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テレビゲーム、というものが誕生して早20年。
以来、それらはコンピューターの進歩と共に凄まじい速度で進化してきた。
現実に迫るグラフィック。そのままCDにして遜色ない音楽。720度を自在に駆け回るキャラクター達。汲めども尽きぬROM容量。その黎明期を思えば想像もつかなかったことが、今、実現している。
しかし、夢が容易く叶うようになった今。
黎明期の頃には想像もつかなかった問題もまた、問われるようになった。
――ゲームの楽しさとは、何か?
かつて「クソゲー」の名で呼ばれていた「ハズレのゲーム」は、その大半が技術力の不足やおざなりな企画によって生まれたものだった。しかし当時のゲームはハード自体にも制限が多く、絵も音も必要最低限で、テレビゲームというもの自体の在り方にも型は無い。全てが手探りで、冒険だった。
だがそれでもゲームは面白かった。
「クソゲー」と呼ばれたゲームにさえ、面白味はあった。
それが今になって何故、ゲームの楽しさが問われるのか?
――残念ながら、ハードの進化ゆえ、ということも言えるだろう。
絵も、音も、動きの自由さも、ROM容量も、ゲームの本質ではない。
素晴らしいストーリーですら、ゲームの本質ではない。
障害を楽しむのが、ゲームなのだ。
長い苦労が無に帰し、或いは何度繰り返しても前に進めなくてハードを叩き壊したくなるほど悔しかったり、腹が立ったりするのがゲームだ。それでももう一度挑戦したくなるのがゲームなのだ。
クリア出来ない訳じゃない、まだ試せることがあるはずだ、という思考の楽しみ。
その試行の果てにクリアする、或いは勝利する喜び。
程好い試行錯誤を経て得られる達成感、それこそが「よいゲーム」に古今東西秘められた「よいゲーム」の絶対条件なのである。
ハード性能の凄まじい向上と共に、クリエイター達はその原点を確かめられないままここまで来てしまったのではなかっただろうか?いや、ユーザーでさえその原点を確かめないままここまで来てしまったのかもしれない。
ハードの向上が、リアルという限界に達しようとしている今、ようやく我々の目はその原点を見失っていることに気が付いたのだろう。
より良い達成感を得られる障害のバランスとは何か。
ゲームが極めるべき次の進化とは、きっとそこに在る。
そしてその進化が進み始めるとき、20年を経たハードと技術の進化は、それでこそ決して無駄にはならないだろう、と僕は思う。
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+++++++++2003,10,15
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